TM SGM RSI 5/1986

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[/wide] Swiss Typographic Monthly Magazine
Journal for Typographic Composition, Design, Communication, Printing and Production.
Published by the Printing and Paper Union Switzerland for the advancement of education in the profession.

Handwriting : Taro Yamamoto

Helmut SchmidとWolfgang Weingartの往復書簡が掲載されています。

Helmut SchmidとWolfgang Weingart:
日本タイポグラフィ年鑑に端を発した往復書簡


親愛なるヘルムート
先週の土曜日、またチューリヒでTM誌の選考委員があった。そこで「日本タイポグラフィ年鑑1985」の背後に誰がいるかわかった。思ったとおり、君。実に素晴らしい仕事おめでとう。
1985 09 16

ウォルフガング
あの年鑑の仕事は実に面白かった。とりわけタイポグラフィに関する寄稿や、杉浦康平の作品をデザインすることはエキサイティングだった。しかし基本的には年鑑というものは少々、スーパーマーケットの観がある。
君が年鑑に寄せてくれたエッセイは、きわめて造詣が深いものだった。ただし、日本のデザインに対するゴマすりは別だ。遠くからだと何事もバラ色に見えるのが常だということだろうか。君が毎日スイスで仕事をしているように、僕は毎日日本で仕事をしている。現在はいささか生気を失っているようだが、元来良心に支えられているものだと思っている。ここ日本ではデザインは技工に走りすぎている。
1985 10 06
– –
親愛なるヘルムート
年鑑に書いたぼくの文について一言、日本では – たとえ単発的にあるにせよ – ビジュアルデザインの分野で何か手応えのあるものが生じている、というのはぼくの実感だ。ごく自然に佐藤某という名前が浮かんでくる。スイスのデザインはかつてのように、「良心に支えられた」ものではなく、いまや純粋なるビジネスだ。ほんのわずかばかりの例外を除けば、新しいアプローチは見られず、品も秩序もないデザインが氾濫している。そして未だに「ルーダースタイル」で仕事をしているものがいるとすれば、それが「無難で間違いないから」にすぎない。
あるいは。こう言ってもいいだろう、すなわち、スイスでは大体すべてが悪い。日本でも(君の手紙から結論すれば)大体すべてが悪い、が、何か新しいものを見せてくれる人が若干はいるということだ。
1985 10 11
– –
ウォルフガング
君の、未だに「ルーダースタイル」で仕事をするデザイナーは、それが「無難で間違いないから」というくだりでは、ぼくは少々軽べつを感じた。ルーダーのタイポグラフィの明解さに到底およびそうもないデザイナーはごまんといるのだ。ぼくにとってルーダーは時間を超越した存在である。それはルーダーが一つのスタイルに囚われることがなかったからに他ならない。

エイプリル・グレイマンが、ニューウェーブを「ビジュアルの食欲の旺盛な人々のために」と宣伝されているが、ぼくは、いやけっこう、食事をすませたところだ、といいたい。また、ステファン・ガイスビューラーらのデザイナーたちは、ニューウェーブは「デザインにおける自由の再発見」であるとこのほど発見されたようだが、ぼくはデザインにおいて、またタイポグラフィの場合は特にエミール・ルーダーの下では、自由は常に存在していた、と申し上げたい。ルーダーによって、あるいはルーダーの放つ光によって、自己の形成をなしたデザイナーにとって、旗印を変えることは、容易なことではない。あるスタイルから別のスタイルへ自己との闘いなしに変わることなど、できるものではない。文化無制限のアメリカには、実は何もない、シャマイエフ、ランド、ルバーリンら数人のビジネスマンがいるのみである。この国ではデザイナーがいかなるスタイルであろうと、顔をあからめることなく、真似ることができるらしい。
ぼくには、カリフォルニア・ニューウェーブは、ほとんど例外なく、純粋なブティックデザインに見える。
実は君に大変感謝していることがある。「タイポグラフィ・トゥデイ」を制作しているとき、ぼくをこのウェーブから救ってくれたのは君だった。
君の仕事を高く評価していることは、すでにあちこちで書いてきたが、さらに君のタイポグラフィによって、タイポグラフィは再びタイポグラフィとなった、といいたい。だが、君がルーダーの価値を落としそうになると、ぼくはいつも過敏になる。君の仕事の基盤も多分ルーダーに依存しているのだ。
ポンピドゥーセンターの最近のカタログ「ことばのイメージ」を見ると、ニューウェーブ一色だ。多数の怠慢なるフランスデザイン。日本のデザイナーたちの凝った展覧会作品 – 彼らの本業の仕事が君の目にふれることはまずないだろうが、(あいにくぼくの目には…)。それに君のカリフォルニアの友人たちの創造の最を見せる作品の数々、散乱したタイプフェイスの例、底抜けの陽気さ、そしてあの自由の謳歌…ファンクションはフォルムに従う?!?
1985 10 23

親愛なるヘルムート
過去現在を問わず、重要性を持つものはすべてスタイルになるとぼくは思う。他の分野でもタイポグラフィでも同様。エミール・ルーダーは、原理においても表現においても、むしろ控えめであり、エイプリル・グレイマンはむしろその反対だ。こうした個人的特色が、他人によって無雑作に繰り返し使用され、かくしてスタイルなるものが作り上げられる。「スイスタイポグラフィ」がぼくから見れば一スタイルである」。
ここで「スイスタイポグラフィ」と「スイスタイポグラフィ」の違いについてふれておかなければならない。手近な例として、君がデザインした「日本タイポグラフィ年鑑1985」を取り上げてみよう。
これこそ、その感覚においてもスタイルにおいても「スイスタイポグラフィ」の典型的な所産であるとぼくは思う。君がこの本で解明して見せた繊細さは、しかしながら単なる「スイスタイポグラフィ」を凌ぐものになった。実に繊細で、洗練され、すdに「グラフィックタイポグラフィ」に近いものになっている。これは目があったことで成し得たことで、あの往々にして命ととりになりかねない「植字盆」から生まれたものではない。これが顕著な点であり、おそらくぼくらの誤解はここにあったと思う。
いうまでもなく、ルーダーが極めて重要な人物であったことは認めているし、ぼくらはすべて、彼の原理の土台に立っている。しかしどこかで何かが欠けていた。どこかで植字盆やゲラが前面にですぎていた、少なくともぼくにはそう思えた。彼の自由と実験の楽しみは、鉛活字に限られていた(その可能性は当時技術的に限界があったからに他ならないが)。それは、確かにある時期、植字工の高度な水準における実験のよろこびにあったろう。そのころシンメトリックスタイルはゆっくりと意義を失い始めていた(これは現象的に理解すること)。さて、このタイポグラフィはさらに発展し、高度に洗練された「スイスタイポグラフィ」のタイポグラファは、決して多くはない。
君のニューウェーブ所見には全く同感だ。混沌。阻止できぬ誤解。ぼくらが15年あまり前にバーゼルスクールで教えていたことには大義があった、すなわち、「スイスタイポグラフィ」を刷新すること。反動、字間スペース、アンダーライン、脱直角組、そして最終的にはタイポグラフィをグラフィックに至らしめる…
ところが70年代中頃から、ぼくらの教授は変わってきた。ぼくは、今になって、時には誤りを犯していたと認め、そこから学ぶこともある。ともあれ、ぼくらは理念をもって、国際的に荒廃した喚起をしたことになってしまった。これらはぼくらの意図したことではなかった。ひとつのスタイルを世にだそうと思っていたのではない。改め新しくしたいと思っていたのだ。残念ながら現実は異なった方向にいってしまったが…
しかし、「ウェーブデザイナー」について多くを論ずることはなかろう。今は見てのとおり。そして世の中の全てのデザインのスタイルと同様、やがて通過してしかうものだ。
ぼくらがなすべきこと、それは君のいうとおり、自分の努めに邁進することだ。だから君の新しい仕事は、当節のキッチュやニューウェーブの流れに逆らって、まことに爽やかなのだ。
1985 10 30

ウォルフガング
エミール・ルーダーのタイポグラフィは洗練に洗練を重ね発展した。すべてのデザイナーがこの洗練の高みに達したわけではないが、これがもとよりルーダーの所為ではない。未知への挑戦は万人の望むこととは限らないが、とにかく群衆デザイナーは、凍結したタイポグラフィーのルールに固執するものだ。
ぼくの言いたいことは、つまり、君の同業者批判を受け入れることができるということ。デザイン教育を終えるや、安楽椅子に身をしずめ、保証済のデザイン処方を用い、金儲けに勤しんでいる人たちに対する君の批判のことだ。ただし、全てのデザイナーがパイオニアになりうるとは限らないとう限定つきで。熱心なタイプセッターやタイポグラファの助力を得て、健全で広汎な基礎を築くということは、エミール・ルーダーが早くから言っていたとうり、重要なことと思う。
ぼくが受けいられないのは君の、ルーダーの植字盆タイポグラフィ批判だ。もちろん、ルーダーは鉛活字のタイポグラファーだったが、この鉛活字の条件のもとで、機能的で、優美で、良心的なタイポグラフィを創造した最初の人であった。時期が熟していてこそ発展が可能なのだ。君だってバウハウスのタイポグラフィを、今日の観点と知識から批判することはないだろう。
現在なお、ぼくらの興味をひく、ピート・ツヴァルトの作品は活躍の盛んだった10年間に集中している。また、ヨゼフ・ミューラー・ブロックマンが繰り返し見せてくれるあの有名なポスターの数々は、50年代後半から60年代初期にかけて制作されたものである。欧米のデザイナーは全て短い活動期の後、退いて沈黙してしまう。ぼくらのルーダーを彼の活動の頂点で、失った。ルーダーのデザインマニュアル「タイポグラフィ」に目を通すと、今日の混沌としたデザインの間にあって、瞑想の世界へといざなわれる思いがする。
ぼくは、今日の反動的なスイスタイポグラフィを理解することができる。しかし「タイポグラフィ」を最終的に「グラフィックに至らしめる」は納得できない。たぶん君の真意を理解していないかもしれない、だがタイポグラフィをグラフィックの召し使いだとするような考え方には理解できない。タイポグラフィ自体、独立した生命と美しさを備えていると信ずる。

タイポグラフィックな表現を、容認するか否認するかの難しさを再考するために、「日本タイポグラフィ年鑑1985」を実に冴えた感覚で批評してくれた、スウェーデンデザイナー、オケ・ニルソンの手紙の一節を引用したい。
「最初、jの点が丸くなっているのにひどく気分を乱されたが、後にそれが記号的意味があることがわかり、幾らか救われた。しかし、カバーの小文字、とりわけgraphyの字間のアキには、最後の息を引き取るまで、苦しめられそうだ。」
1985 11 08

TM誌の歴史
1882年にSGM誌がチューリヒのR.Scweizer氏によって創刊された。
1923年にはRSI誌がE.Guggiに氏により創刊。そして1933年、ベルンのスイスタイポグラフィ協会かTM(Typografische Monatsblatter)誌が創刊された。
1948年にTM誌とRSI誌が、さらに1952年にはSGM誌も加えた3誌TM誌に合併。
尚、出版社はComedia社であり、1981年のRudolf Hostettler氏の没後からは、Jean Pierre Graberが編集を手掛けている。現在はLucius Hartmannの編集の下で季刊ベースで発行されている。

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