El Lissitzky: Beyond the Abstract Cabinet

Hardcover: 240 pages
Publisher: Yale University Press
Language: English
ISBN-10: 0300081707
ISBN-13: 978-0300081701
Product Dimensions: 30.5 x 24.5 x 2.8 cm
Release Date: 1999
Price: $100 USD (¥10,000 JPY)
Free Worldwide Shipment from Tokyo
Condition: good (Pre-Owned)




日本国内の方は下のボタンからご購入いただけます。
コンディション: 良い(目だったダメージもなく良好です)


*国内のみ、ゆうぱっく発送にて送料無料となります
銀行振込をご希望される方はこちらに直接ご連絡いただけるようお願いいたします。
info@page-spread.com

Lazar Markovich Lissitzky is widely known as a Russian avant-garde artist who made significant contributions to abstract art the 1920s. Until now his experiments with photography, photomontage, and graphic and exhibition designs in the 1920s and throughout the 1930s have not been documented and thoroughly analyzed. This book explores both the political and aesthetic aspects of Lissitzky’s late multimedia work from his designs for the Abstract cabinet to his death in 1941.
The author and the two contributors give special attention to Lissitzky’s intense collaboration first with German and then with Soviet photographers, designers, and filmmakers, and they discuss how his various personal friendships and acquaintances influenced the directions he took in photography and design. The book presents photographic works by Lissitzky’s and these other artists as well as some of Lissitzky’s early non-objective art that foreshadows his experiments in figurative art. It also includes Lissitzky’s correspondence with his Western colleagues and his wife Sophie Kueppers.

El Lissitzky
「プロウン」(新しいものの確立のプロジェクト)の提唱者。この「プロウン」と題された一連のシリーズは1919年から1921年にかけて制作する。これはフォルムと構成の建築様式的な実験モデルとして知られている。
1923年に国家主導でプロパガンダの為の「フォトモンタージュ研究所」をグスタフ・クルーツィス、ゼンキンと共にモスクワに設立。この研究所で、視覚言語としてのフォトモンタージュを効果的に利用するための方法を確立した。結果、フォトモンタージュはロシアでは政治改革を遂げるための集団的革命表現運動として結実した。
1920年代にかけての彼の活動は主に西ヨーロッパ、ドイツで展開する。その目的はソヴィエトロシアにおける芸術運動および政治状況を諸外国に伝達することであった。なかでも1928年ドイツケルンにおいて開催された「国際報道展(通称:プレッサ)」におけるソヴィエトパヴィリオンの設計は秀逸であり諸外国のメディアを大きく揺さぶるものとなった。
1924年から翌年にかけては、ヴォルケンビューゲルというモスクワ中心街を計画地にしたオフィスビル群建設プロジェクトを発表。
1930年に創刊されたソ連の対外宣伝グラフ雑誌『建設のソ連邦(ソ連邦建設、ソ連建設と訳されることもある)』は露英独仏西の5か国語で刊行された。その順にタイトルは、СССР НА СТРОЙКЕ(露)、USSR in conctruction(英)、USSR im Bau(独)、URSS en construction(L’URSS en construction、と仏語の冠詞がつく場合もある)、URSS en construcción(西)同誌の一部の号のデザインも手掛けた(1932年から、死の前年の1940年まで)。
詩集『声のために』は詩人で芸術家のマヤコフスキーとの共同編集。インデックスシステムを採用した書籍はおそらく世界初。
via wiki

El Lissitzkyは小さい頃から絵が好きで画家を目指すがペトログラードの芸術大学の受験でおそらくユダヤ人であることで入学を拒否される。そのことが彼の人生に大きな影響を与える。1909年にドイツに留学しダルムシュタット工科大学で建築を学び卒業後ロシアに戻り建築家のアシスタントとして仕事を始める。1917年にロシア革命が起こりユダヤ人にも平等の労働権利を得ることができそのことでリシツキーは西側に亡命せずロシアに止まることとなる。演説者のための演壇のデザインや革命をモチーフにしたポスターなどを残す。1922年にベルリンで行われたロシア芸術展でリシツキーら構成主義のメンバーは西側諸国(ドイツ)にセンセーショナルを起こしロシアの代表として再びドイツを訪れることとなる。西側のアヴァンギャルドの連中と交流を深めたり勢力的に機関誌を発行し独創的な装丁やブックデザインを残す。また23年にマヤコフスキーの「声のために」のブックデザインで世界的な評価を得る。22-23年に数多くの代表作を残すこととなるが1923年末に肺結核を発病し死ぬまでこの病気と戦うこととなる。レーニンの死後、スターリン体制になってからは芸術活動に制限が加えられ結果的にロシアアヴァンギャルドは終焉を迎える。療養中の間も病気と戦いながら作品を発表しペリカンインク社の広告、フォトモンタージュ、USSRなどのデザインなど勢力的に作品を残す。
via biotope.biz

Post Your Thoughts

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください